コミコミ!日記

バンコクよりお届け!コミュニティと社会を考える体当たりな毎日

他者とのコミュニケーションの道具か、同質性確認装置か

時々知らない番号から電話がかかってきて、いきなりタイ語で何やら喋り、私が「Sorry?」とか「アライナ(何ですか)?」とか言っているとしばし困ったように沈黙し、いきなり電話を切られることがある。

明らかに間違い電話と思われることもあるが、全てがそうではなさそうだ。

多分何かの業者なんだろうが、私があまりタイ語を理解していないということがわかり当惑して、とりあえず電話を切ってしまうのだろう。

うーん、私のタイ語能力が低いせいなんだけど、自分からかけてきたくせになあ。。。

 

これまでタイで暮らしてきた中で、日本人に対するタイ人の言語使用は

・その人が理解しているかに関係なくタイ語で喋りまくる

または

・英語または日本語ができる他の人を呼ぶ

というパターンが多い気がする。

前者はさておき、後者は何となく悔しい。私のタイ語能力が低いのは完全に私の怠慢だけど、それでも少しはわかるので、簡単な言葉でゆっくり区切って言ってくれれば通じるかもしれないのに。タイ語でも英語でも、最低限の単語を並べてジェスチャーで補うとかでコミュニケーションする術はあるのに。

 

そんなモヤモヤを抱いてしまうけれど、果たして日本ではどうなんだろう。

今日本に暮らしていないので肌感覚として感じることはできないけれど、例えば日本語能力がそこまで高くない人に対して易しい日本語でコミュニケーションをとる等の工夫ができているだろうか。英語が得意でないからという理由で、外国人とのコミュニケーションそのものを避けていないだろうか(外国人=英語と決めつけるのも問題ありと思うのですが)。

 

タイ語も日本語も、基本的には特定の国でのみ使われる言語で、表記体系の複雑さや発音の難しさなどから、一般に外国語として身につけることが大変な言語と言えるだろう。

「自分たちだけがわかる言語」という意識ゆえに、他者とのコミュニケーションのための道具となるよりも、集団内での共感を求め、同質性を確認するための装置の一つとして使われることが多いのかもしれない(それもコミュニケーションの一種ではあるが)。他者に対して開かれた言語というより、内側に閉じていく傾向にあるというか。

 

それ自体が悪いとは言わない。ハイコンテクストな言葉で集団内の共感を得て盛り上がることは快感だ。ただし、それが他者とのコミュニケーションの妨げとなったり、行き過ぎて他者を排除する方向に行くのは危険だ。

 

少し論旨が飛躍してしまったけれど、普段何となく使い、何となく仲間と共感しあっている日本語を一度解体してみることについて、近々ゆっくり考察してみたい。