「再開力」とは
堀江貴文氏の唱えた「多動力」という言葉が、これからの時代を生きるにあたって必要な要素として一般的に使用されるようになった。
私はこれに加えて、「再開力」というスキルを提唱したい。
これまではどちらかというと、一つのことに集中し、それを極め続ける生き方が美徳のように語られてきたと思う。その価値基準においては、ブランクはネガティブなものとして捉えられることが多い。
しかし、誰もが一つのことを極める人生を送るわけではない。「多動力」というキーワードにも表されているように、複数のやりたいことを同時進行させていく生き方がより注目されている。
やりたいことは無限でも、時間は有限だ。様々なことをやるために、あることを一定期間休んで他のことに時間を割いたのちに、また再開する必要性も絶対に出てくる。そういう細切れのやりかたで最大限の効果を上げるためのスキルが「再開力」である。
「再開力」を構成する要素は何か?
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①休止し、また再開することに対して心理的抵抗が最小限であること。
②休んだ後、実際に再開できること。そのためのエネルギーがあること。
➂ブランクによる勘やスキルの低下を最小限に抑えられること。そのためには、物事に取り組む際に常に「自分の身体に落とし込むように身につけること」「自分の持つ他のスキル等との共通点を見つけ、本質を理解しようとすること」を意識する必要があると考えている。
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思いつくままに挙げてみたが、あれこれやりすぎて休止→再開を繰り返さざるを得なくなっている自分がこれらを実践できている…とは、まだまだ言えない。
また、上記は個人の内面的な要素だが、社会的にも「再開力」を支える要素があると思う。
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◆休止→再開を繰り返すことに対し、周囲の人がネガティブな印象を抱かないこと。
◆ブランクがある人を積極的に受け入れること。継続期間の長さのみで評価しないこと。
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この「再開力」のもとに、皆が色々なことにチャレンジするようになれば、社会も個人ももっと豊かになるし、いったんレールから外れた人も、子育て等でブランクを経ざるを得なかった人も、もっと生きやすく、挑戦しやすい世の中になると思う。そうあってほしい。
公的な支援機関がないこと
児童虐待の痛ましいニュースやそれに伴う論議がメディアを沸かせている。
虐待は、する側が幼い頃に虐待を受けていたり、類似のトラウマを負っていたりするケースが多いと聞く。また、経済的な困窮、頼れる場所の欠如等の問題もある。
だから状況の改善のためには児童相談所の機能を強化するだけでなく、貧困対策、頼れる場所の創出とその周知が欠かせない。既に多くの人が様々な規模で動いているだろう。
だけどふと思う。
これらは、日本に住んでいる、日本語ができる日本人をまず想定しているよね、と。
もし、例えばタイに住んでいる日本人家庭で児童虐待があったとする(これは決してあり得ない話ではない)。
駐在で数年滞在するだけの予定で、タイ語もほとんどできず、タイの公的機関とも縁薄い。
タイにも児童相談所的な機関は恐らくあるんだろうけど、そんな外国人家庭を相手に優先度を高くして対応してくれるとは思えない。「疑い」だけのケースに対して警察が動いてくれるかも怪しい。
例えば日本国内の外国人が多い地区で虐待があったとする。
隣人が虐待を疑ったとしても、児童相談所に連絡することを知らない。日本語も不自由で、警察に相談するにも腰が重い。
十分考えられることじゃないだろうか。
海外在住者は横のつながりが概して強く、自分たちで共同体を組織して無いものを自助努力で補おうとする。だけど、虐待など時に強硬手段に出る必要があるケースにおいては、それだけでは不十分なのではないか。
もちろんこれはまだ主観的な推測にすぎず、もっと調査が必要だ。
ただ、外国籍の者は公的な支援に関して弱者になりやすい。子どもなどは特に、それによるリスクをしっかり考えなければならないと思う。そして起こりうる事態に関し、どんな対策ができるのかを考え、それを周知することが必要だ。
海外に住んで思う、国家と会社と個人について
時々「国家」の役割についてどうしても考えが及ばざるを得ない時がある。
同時に、「会社」の持ちうる意義についても。
駐在員家族として海外に暮らしていると、日本の行政サービスの多くは利用できない(住民票を日本に残したとしても現実的にはかなり限られるだろう)。日本では通常個人で行っていたことも、会社を通して行う必要がある。
例えば住居の賃貸。家賃を会社に補助してもらえる点で(日本人に人気の物件はとても自腹で払える賃貸料ではない…)得しているが、会社名で賃貸契約しているので制限もあるし、手続等はすべて会社経由になる。
医療費の規定は会社によって様々だが、全額でも部分的にでも多くの場合会社がいくらか負担するため、病院にかかるたびに会社への医療費申請が必要。
出産・育児にかかる費用も、国や自治体からの補助はもちろんないため、程度は異なるが会社からの補助が出る。公的な相談機関もない。
…会社に申請できるのは当然そこで働いている夫のほうなので、生活にかかわることを自分でできない歯がゆさもある。
そして、何でもかんでも会社のお世話にならざるを得ないこの状況。
今の自分たちにとって、「会社」が「国家」の役割を果たしているんだな。
と、時々ふと思う。
「もう国家はいらない」と言っている人もいるし、それはそれでいいのかなーと思ったりもするけれど、会社が国家に代わる存在になりうるかと言われると、これもまた首をかしげてしまう。
企業の基盤など国家に比べればもろい。いくら大企業でも、つぶれる時は簡単につぶれてしまう。そもそも、教育課程を修了した者の人生の受け皿としての企業の役割はどんどん縮小している。
「企業」という存在に我が身をまるごと預けている今の状況に、何とはなしに不安を覚える。
では「国家」なら安心なのか。国の領土内で、国家の枠組みの中で暮らしていれば良いのか?それとも国家も会社も超越して個人として暮らしていく方法があるのか?
…現状どちらにも否定的だ。
国家の枠を超えて、様々なフィールドで自由に活躍する個人はもはや珍しい存在ではない。ただし私たちはまだまだ国の行政サービス、インフラがなければ暮らしていけない。
私は1歳児を育てているが、育児サービスや自治体による金銭的な補助はない。日本の本社での働き方改革も海外法人に適用の義務は全くない。極論、例えば日本でベーシックインカムが導入されることになった場合、日本に税金を納めていない海外在住者は恐らく受給の対象外となるだろう。
こうしてないものを挙げることはいくらでもできる。その穴を企業が埋めたり、海外在住者同士の横のつながりで埋めたり、「日本に帰ったら…」トークに花を咲かせて?埋めているのが現状。
海外在住・国内在住にかかわらず、個人と国家と企業の立ち位置、あるべき健全な関係性について、またゆっくり考えてみたい。
家にいないstay-at-home wife/momについて
現在の私の職業は、というと「主婦」それも「専業主婦」である。
主人の海外転勤に伴ってだが、帯同を決めたのは自分なので自分の意思で専業主婦をやっているとも言えるし、働きたい意思はあるので意に反して専業主婦をやっているとも言える、そんな主婦だ。
英語ではstay-at-home wife(子持ちなのでstay-at-home mom)などという。
ところがこのstay-at-home mom、しょっちゅうどこかに出かけている。しかも多くの場合子どもと一緒に。買い物しか外に出ていない…という日は殆どない。
ボランティアで数々の組織の仕事をしたり、その関係で人に会って喋ったり打ち合わせしたり、プレイグループなどで子どもを遊ばせたり、友達と会ったり、自分の勉強をしに行ったり、歌ったり人前で演奏したり、などなど。
うーん、どこが"stay-at-home"なんだろう。
私の日々で大きな比重を占めているのが数々のボランティア活動。
日本にいたときは、ボランティアというと災害時の援助とか、イベントのスタッフといった単発のものの印象が強かったけど、ここバンコクで携わっているのはボランティアによって成り立っている組織でのレギュラー(?)ボランティア。大まかに言うとコミュニティーの利益のための自助組織の運営。
「専業」主婦/主夫というと家の仕事だけに従事しているという印象があるし、"stay-at-home" wife/husbandというと文字通りずっと家にいる印象。
駐在妻という立場上、身の周りには専業主婦が多いけど、皆それぞれにボランティア活動をしたり、自分の専門や趣味を周囲の人に還元する活動をしたり、子どもが幼稚園・小学校に行っている人はそこの保護者会の仕事をしたり、とにかく活動的。
多くの人は、だいたいどこかに出かけている(笑)。
だから決して社会とのつながりを断たれているわけではないし、専業主婦のこうした活動によって助けられている人が大勢いる。
だから専業主婦だの、stay-at-home wife/momだのといった言葉でくくるのでもなく、対価が発生する仕事をしているかで区別するのでもなく、もっと社会的な価値を生む存在として認識してほしいと思っている。
価値はお金ではないと思う。ただし、人によるけれど専業主婦自身が、自らお金を稼いでいないことで引け目を感じてしまうことはある。(専業主夫の方とは今のところ面識がないので、ひとまず女性に限っています)そこは私たち自身の意識を変えないといけないし、もっと広い意味で捉えると、「お金」に至上の価値を置いてきた社会の構造・意識そのものを変革していく必要があるだろう。
既存の「お金」の概念を解体しようという動きはあるし、お金にとらわれない若者も増えているし、社会の変化は少しずつ起こっているはず。それに対して専業主婦は何ができるか、今日も思案している。
他者とのコミュニケーションの道具か、同質性確認装置か
時々知らない番号から電話がかかってきて、いきなりタイ語で何やら喋り、私が「Sorry?」とか「アライナ(何ですか)?」とか言っているとしばし困ったように沈黙し、いきなり電話を切られることがある。
明らかに間違い電話と思われることもあるが、全てがそうではなさそうだ。
多分何かの業者なんだろうが、私があまりタイ語を理解していないということがわかり当惑して、とりあえず電話を切ってしまうのだろう。
うーん、私のタイ語能力が低いせいなんだけど、自分からかけてきたくせになあ。。。
これまでタイで暮らしてきた中で、日本人に対するタイ人の言語使用は
・その人が理解しているかに関係なくタイ語で喋りまくる
または
・英語または日本語ができる他の人を呼ぶ
というパターンが多い気がする。
前者はさておき、後者は何となく悔しい。私のタイ語能力が低いのは完全に私の怠慢だけど、それでも少しはわかるので、簡単な言葉でゆっくり区切って言ってくれれば通じるかもしれないのに。タイ語でも英語でも、最低限の単語を並べてジェスチャーで補うとかでコミュニケーションする術はあるのに。
そんなモヤモヤを抱いてしまうけれど、果たして日本ではどうなんだろう。
今日本に暮らしていないので肌感覚として感じることはできないけれど、例えば日本語能力がそこまで高くない人に対して易しい日本語でコミュニケーションをとる等の工夫ができているだろうか。英語が得意でないからという理由で、外国人とのコミュニケーションそのものを避けていないだろうか(外国人=英語と決めつけるのも問題ありと思うのですが)。
タイ語も日本語も、基本的には特定の国でのみ使われる言語で、表記体系の複雑さや発音の難しさなどから、一般に外国語として身につけることが大変な言語と言えるだろう。
「自分たちだけがわかる言語」という意識ゆえに、他者とのコミュニケーションのための道具となるよりも、集団内での共感を求め、同質性を確認するための装置の一つとして使われることが多いのかもしれない(それもコミュニケーションの一種ではあるが)。他者に対して開かれた言語というより、内側に閉じていく傾向にあるというか。
それ自体が悪いとは言わない。ハイコンテクストな言葉で集団内の共感を得て盛り上がることは快感だ。ただし、それが他者とのコミュニケーションの妨げとなったり、行き過ぎて他者を排除する方向に行くのは危険だ。
少し論旨が飛躍してしまったけれど、普段何となく使い、何となく仲間と共感しあっている日本語を一度解体してみることについて、近々ゆっくり考察してみたい。
コミコミ!日記に込めるもの。
以前細々と(本当に細々と)日々の思いを書き綴り、休眠状態にあったhanamatsusan's blogを「コミコミ!日記」というタイトルにてリニューアルオープンしました!!
それにしてもタイトルの「コミコミ」とは???
・コミュニティの「コミ」
・いろんなものを含んでいる、「全部込み」という意味の「コミコミ」
この二つの意味を掛けています。
というのもこの二つの言葉が、このブログで私がこれから発信していきたい価値観のキーワードになると思っているからです。
まず「コミュニティ」について。
最近は地域社会でも企業でも、コミュニティを育てることの大切さが声高に言われているのですが、私がコミュニティというものを意識するようになったのは、2017年に夫の仕事の関係でタイのバンコクに引っ越してからでした。いわゆる駐在員妻です。
バンコクだけでも5~6万人(正確な数字でなくすみません)の日本人が生活していて、日系企業だったり、ボランティアベースのサポート団体だったり、様々な組織が大きな日本人コミュニティを作り上げている。口コミや在住者のブログで生活情報が十分に手に入る(なので「海外暮らし」という言葉のイメージからは程遠く、かなりの程度日本語で日本的な暮らしができてしまいます)。
5~6万人いるとはいえ、居住地も集中しているしやはり狭い社会。なので自分とコミュニティとのかかわりを強く意識するようになりました。そして次第に、全ての人が暮らしやすいコミュニティの創造にかかわりたいと思うようになりました。
このブログでは、コミュニティについての考えや、私が今ボランティアベースで行っている様々なコミュニティ関連活動の記録を綴っていきます。
次は「込み込み」について。
これはさきほどの「全ての人が暮らしやすいコミュニティ」という概念に関係しています。
「不寛容社会」という言葉で語られる他者や非効率を排除する傾向や、何か・誰かを悪と特定して一斉にたたくような風潮に危機感を感じています。
色々なものを受容し、包摂して、ともに発展していく社会を目指したい。
そういう思いから、「何でも込み!」という言葉をタイトルに使うことにしました。
読んでくださった方が身近なことを新たな視点で考えるきっかけにできるブログを目指して参ります。宜しくお願いします☺
弁当、BENTO...Croce delizia
突然ですがお弁当について。
タイでは日本の都市のように妊娠中から保活しないと保育園に入れない、ということはないのですが、1歳半から入れる保育園・幼稚園(あまり区別されていない)が多いので、8か月ともなるとなんとなく「どこにしよう~」と考えてしまいます。
調べたところ、お昼ご飯は給食が出るところが多いですが、お弁当と定められている園もありました。
さてこのお弁当作りですが、日本では自分も働いているのに子どもと夫の分のお弁当を毎朝早起きして作っている女性が珍しくなかったり(もちろんお弁当作りをしている男性もいらっしゃいますが)、見た目が良くバラエティに富んだお弁当作りのための本が沢山書店に並べられていたりします。外国人から見て睡眠を削ってまでお弁当作りをすることに違和感を覚える、というような意見もよく聞きます。
私も、お弁当作りに気合を入れすぎたり、毎日の義務にしたりする必要はないと思っている人の一人です。
私自身高校の3年間はお弁当を作ってもらっていたので、それについては母親に本当に感謝しています。
…ただ、本音を言ってしまえば、学食で定食を食べている人を羨ましく思うこともありました。子どもってそんなものだと思います。
子どものお弁当については、学校に給食がないという事情に加え、お弁当は親の愛情の表現だという概念があると思います。
ただ、私自身は違った風に考えています。親の手料理といえども、どうしても偏りや癖があります。三食のうち一食くらいは親以外が作る料理を食べたほうが、色々な味や食材を経験できて良い、と思うのです。他で愛情表現できていれば、子どもが「お弁当じゃないから自分は愛されてないんだ」と感じることも多分ないと思うのです。
だから自分の子どもが入る園・学校はできる限り給食があるところが望ましいです。子どもの味の幅が拡がって、負担もなくなる(給食費は必要ですが、お弁当だってタダじゃありませんから)。一石二鳥です。
夫のお弁当については、「外食は高いから」という節約意識によるところが大きいでしょう。職場の近くに飲食店がなく、社員食堂もないという場合も考えられます。この場合はお弁当か、コンビニやスーパーのおにぎり・パン・お惣菜を買って持ち込むかという選択肢になりますが、コンビニのものでしっかり食べようと思ったら結構なコストがかかるもの。
節約と負担軽減の両方をかなえるためには、「三食しっかりバランス良く食べなきゃ」という意識から変える必要があるかもしれません。
私は栄養学のエキスパートではありませんが、実感として、食事は欠食せずに一日のトータルでバランスがとれていれば問題ないと思います。他で栄養がとれていれば、お昼ご飯は簡単なものやちょっと炭水化物に偏ったものでも構いません。
朝は食欲がなくて食べられないから昼ご飯をしっかり食べたい、という人もいるかと思いますが、その場合は「朝食べられないのは何故か?」を考えるべきなのではないでしょうか。
そこまで考えて、労力とコストを比較してやっぱりお弁当が必要なのであれば作ればいいと思います。少なくとも何となく義務感で作る必要はないかと。
「なんとなくの義務」をなくし、必要性を感じるものに労力を使うこと。
もっと自由に柔軟に考えること。
お弁当にもこの二つを適用したいものです。